「お願いだから、僕に姉さんが持っている二枚の
少年の藍色の瞳が、衰弱している声が、目の前で蹲っている長い黒髪の女性に痛々しく当てられる。
「
満身創痍の状態で脇腹を押さえながら、飛燕と呼ばれた少年を何とか見上げた。
それは、あまりにも突然の事だった。
普段は自分より力が無いはずの弟が、ましてや両親よりも遥かに未熟であったはずの弟が、いきなり両親を瞬殺し、そして自分の集落内にいる一族の者全てを、老若男女問わず皆殺しにしていった――姉である自分を除いて。
飛燕はこの時を狙ってずっと力を蓄え、抑えてきたのだろうか。そうすることによって今までの力量とのギャップを見せ付けることで他の者の不意をつくこともできるが、それまでに受けてきた傷は小さなモノではないのであろうに。
「復讐だよ。今まで僕に冷たい仕向けをしてきた事への、そしてそれを定めたこの世への、ね」
今まで飛燕が受けてきた仕打ちが、脳裏に流れる。飛燕に比べて自分は両親からだけでなく周りからも、非常に優遇されて育ってきた。それを改めて考え直すと、凄く胸が痛む。
「代々僕達七藤家の先祖が守ってきた、境界の扉の結界と封印を解いて魔人の力を解放して僕のモノにして、僕と姉さん以外の存在を全て抹消するんだ!」
四神――天の四方を司る神で、北の玄武、南の朱雀、西の白虎、東の青龍を指す。その内の二つ、玄武と青龍は父を亡き者にした際に奪い取った。
弱っている飛燕の声の中に、僅かな力強さが垣間見える。
「唯一笑顔でいてくれた姉さんだけは……これからも僕の傍にいて欲しい。傍で、ずっと笑っていて欲しいんだ!」
一呼吸置いて、飛燕の表情が急に緩まった。
「だから、僕に協力して。これ以上、姉さんを傷つけたくないんだ」
飛燕は親に甘える幼い子供のように、姉の身体に抱きついた。姉は自分を求める可愛い弟が愛おしくて、優しく包み込むように抱き締める。
身体が触れ合って伝わってくる姉の匂い、温もり、柔らかさが、弟の飛燕にとってはたまらない快楽だった。
「ごめんなさいね。私の力不足のせいで、貴方に辛い思いばかりをさせてしまって」
「姉さんは悪くないよ。ごめんね、こんなに傷つけちゃって。痛かった、よ、ね……」
姉の腕の中で安心し切ったのか、緊張の糸が切れたように飛燕は気を失った。
……無理も無い。一族の者達はそこそこ強く、誰だって自分が殺されるということに抵抗しないはずがない。特に両親は一族の中でも最高の強さだったので、瞬殺するのにかなりの力を必要とした。
自分の胸の中で穏やかな寝息を立てて眠る弟の寝顔を見て一瞬だけ笑みを浮かべるや否や、弟の身体をそっと床に寝かせ、いつも身に着けているお気に入りの――無論、今も――銀の小さな首飾りを弟の首にかけた。
(飛燕がやろうとしていることは、この世が始まってから現代、そしてこれからも築かれていく
決してやってはならない行為……)
女性は身体中に痛みが走るのに耐えながら、部屋にの隅に掛かっているハンガーから、黒いロングコートを引きずり取った。
(四神のカードが揃わない限り、飛燕に境界の扉を開くことは出来ない)
コートを羽織ると、眠っている弟の身体を繊細なガラス細工でも扱うかのようにそっと自分のベッドに寝かせる。抱き上げるほどの腕力と気力が今の彼女には無いので、体全身を使って弟の身体を支えた。
(だから今は、私がここにいてはいけない)
姉は弟を一人残して、自分の生まれ育った、現在では非常に珍しい寝殿造りの家を後にした。
外は、まるで自分の目の前で起こった出来事を洗い流さんとしているかのような、激しい土砂降りだった。
女性は傘も刺さないで、頭から足までずぶ濡れになりながら道を駆ける。艶やかな長い黒髪と羽織っている黒いロングコートも、服も、ズボンも――身に着けている物は皆、雨に濡れて女性の身体にくっついていた。
(飛燕、ごめんなさい。私は、貴方の行動を阻止しなければならない。けれど……)
大粒の雫が、傷ついた身体を激しく打ち付ける。
(今はそれを出来る程の力は無い)
大粒の雫が、傷ついた身体に潤いという名の錘を乗せる。
(……私はどうすればいいのか、全く分からない)
大粒の雫が、傷ついた身体から体温を奪う。
――私は……
気がつけば、行く宛てなんて無いのに、後先考えずにただただ走っている自分がいた。
――光達が放課後
コンコン、と軽く戸をノックする音に、スーツ姿の若い女性教師はノートパソコンの画面を見ながら「はい、どうぞ」と返事を返す。「失礼します」という女性の声と共に部屋に入ってくる彬良と葵が自分の目の前に近づいてきたのを横目で確認すると、教師はノートパソコンの画面を静かに閉じた。
「せっかくの楽しい時間に、わざわざ呼び出しちゃって悪いわね」
“せっかくの楽しい時間”とは、いわゆる放課後
女性教師はくるっとイスを半回転させ、新しく自分が担任となったクラスの生徒二人の方を向いた。
ここは数学教師専用の職員室で広さは通常の職員室の三分の一ぐらいと言ったところか。部屋の奥の方にある棚には、数学の教科書を始め、参考書、各大学の赤本やら過去問題集が、どれも古いものから最新のものまでズラリと並べられている。
因みに、この時間は他の数学の教師達は各々の会議で不在。今この部屋にいる教師は、彬良達と向かい合っている女性教師だけとなる。
「いえ、お構いなく。私は基本的にこの時間は他の人よりも先に部室に行っていますし、霧谷は
既に帰っていますので」
彬良が淡々と答えるのを見て葵は思わず、俺は早く帰りたかったのに! と彼女と教師に目線で訴えたが、どうやらその訴えは女性陣には届かなかったらしい。それに対して少年が小さなため息をついたのでさえ、この女性達は鮮やかにスルー。
「最近、何か嫌な予感がするのよ。周りで何か変なことが起こったりしていない?」
「いえ、特に何も……。ですが、陰陽師である貴女の“何か嫌な予感”はよく当たります。今後、
少し周りに気をつけて見てみましょう」
(は?)
彬良が淡々と話しているのを見て、葵は首をかしげた。何を言っているのかさっぱり分からない。
(それに、
考えれば考えるほど意味が分からなくなる一方なので、少年は瞬時に考慮中の状態だろうと頭の中から切り離し、聞かなかったことにすることで、一時的に問題を回避した。
「そう……話はこれだけよ。今日は来てくれて有難う」
(俺、別に呼ばれなくても良かったんじゃないか?)
彬良が「では」と要に背中を向けると、葵も一緒に回れ右をしようと足を踏み出す前に、「霧谷君はちょっと待って」という要の声に止められた。
葵が「何ですか?」と訊いても、要は「失礼しました」と言って退室した彬良の足音が完全に聞こえなくなるまで、決して口を利かなかった。
「……あの子、放っておくと無茶ばかりするのよ」
やっと口を開いた要の表情は、少し深刻だった。
「それでね、貴方には彼女のストッパー役をお願いしたいのよ。私が常に傍にいてあげることが
できればいいのだけれど……」
仕事上そういう訳にも行かなくて、と付け加える。
会話の内容は理解不能なので考えないとして、何で俺が……と葵は思ったが、それを口にする前に要が答えを出す。
「ストッパーは彼女と仲の良い人でなければ務まらない。よって、候補は必然的に岩切さん、綾
波君……そして貴方、霧谷君の三人に絞られるのだけれど」
「はぁ……」
女性教師は回転いすから立ち上がり、机の引き出しの中から鍵束を取り出す。
「岩切さんではダメなのよ。良い具合に宮木さんに言いくるめられる。そして綾波君は冷静さに欠ける」
引き出しを閉めて、机を離れる。葵は自然と要の後に着いて行く。
「その点を考えると、貴方は非常に冷静だし、あの子に言いくるめられることもなかった。だから、貴方しかいない。貴方にしか務まらない」
昨年一年間も数学の担当だったとはいえ、自分達の担任でもないのでずっと一緒にいたわけではなく、更にはまだ若くて教師になって間もないであろうというのに……一人一人を正確に見分けていた要に、葵は思わず感心した。
「要するに、それは俺にしか務まらないということは今のお話しを聞いて分りましたが、そのストッパーである俺は一体宮木に何をしてやればいいんですか?」
要は部屋の出入り口で、一度立ち止まった。葵も思わず足を止める。
「とにかく、彬良さんが無茶をしないように見張って。無茶をしようとしたら、全力で彼女を止めて欲しいの」
部屋の外に出ると葵も外に出るよう、目先だけで促す。
「それじゃ、私はこれから会議があるから。詳しいことは、また後日話すわ。今回の話だけじゃ、大変飼料不足でしょうから」
「そうですね。だからと言って今すぐ説明されても、かえって頭がパニックになりそうだ。先程の話から察して、何だか少なくとも俺には非現実的な話のような気がします」
さようなら、と軽く挨拶して、葵は今度こそ回れ右をした。
(……非現実、ね。やはり、貴方を選んで正解だった。こんな話をしても、取り乱すことなく実に落ち着いている)
これから帰路へ向かう少年の後姿を見て、要はクスッと笑った。
「さようなら、気をつけてね」
「ん……!?」
広がっていく視界は、左右上下、壁の色は真っ白。長い艶やか黒髪を持つ女性はとりあえず、起き上がって周りを見渡してみる。どうやらベッドの上に眠っていたらしい。
ベッドから降りてすぐ正面の位置にクローゼットが、その隣には全身を映す鏡が、ベッドのすぐ隣には学習机が、それぞれ置いてあった。学習机では、茶色いショートヘアの少女が眉間にしわを寄せ、デュエルモンスターズのカードを腕組みしながら眺めている。そしてベッドの棚では、落とされたであろうヒビの入った目覚まし時計が危なっかしそうに時を刻んでいく。目覚まし時計の隣には、ずぶ濡れの小さな自分のポーチが置いてあった。
最後に自分の姿を見てみると、身体は布団に寝かせてあってかけ布団がかけられており、服装は着ていた筈の白いノースリーブのシャツ・ズボン・ベルト・黒のロングコートではなく、女性用の寝巻きらしい少し大きめのブカブカな白いTシャツと黒いジャージの長ズボンを履かされていた。
満身創痍であったはずの身体に傷一つ残っていないのがかなり気になるところだが。
「ここは」
何処? と言い終える前に、机の前でカードを触っていた少女が突然「目が覚めましたか?」と笑顔で近づいてきた。
「あ、はい……貴方は?」
「岩切光と言います。気軽に“光”って呼んでください♪」
(岩切……もしや、あの翠光の巫女、岩切京菜の……?)
ハッとして光を見つめるが、それでも変わらない彼女の明るさにいつの間にか安心感を覚え、思わず笑みがこぼれてしまう。
「光さん、ですね。有難う御座います。私は
(人違いかもしれないけれど……翠玉のような瞳に柔らかい茶色の髪……可能性は、無いとは言い切れない)
わざわざご丁寧に、と光があたふたしている姿が可愛らしくて、眼を細める。
「そういえば、貴方はカードを広げていましたね。
楓はカードの山の前で腕を組んでいた光を思い出し、まだ濡れている自分のポーチから黒くて小さな箱を取り出した。それは間違いなく、デッキケース。
そのデッキケースの状態からして、中身は全く濡れていないようだ。
「しますよ! もしよかったら、今から
光が嬉しそうにエメラルドの瞳を輝かせながら、机の上にのせたデッキを手に取る。
「そうですね。では、始めましょうか」
楓はベッドをから降りると、すぐ近くに設置してある小さなテーブルの前に、反対側に座っている光と向き合う形で正座した。
互いに相手のデッキを満遍無くカット・シャッフルして受け取り、デッキの一番上からカードを五枚引いて、扇子状に広げる。
『
――今は、少し楽しむことに集中しよう。気持ちを整理する為にも
後書き(ネタバレあり)
【第1部−扉の守護者の最新記事】


